渡邉です。
前回の日記で、私は性同一性障害(GID)当事者ではありませんと書きました。
なので、GIDとしてのカミングアウトの経験は私にはありませんが、
社会から求められる「女らしさ」が自分に合わないと感じることは今までに多くありました。
物心ついた頃、姉のお下がりである女児用の服を着ることを嫌がった記憶があります。
ズボンが好きで、年上の従兄弟のお下がりを喜ぶ子どもでした。
小学校に上がる時、どうしても赤いランドセルが嫌で茶色のランドセルを買ってもらいました。
このとき、赤は嫌だったけど、だからといって黒にしようという思いはまったくありませんでした。
今ではカラフルなランドセルがたくさんありますが、当時は赤黒以外の子はいなかったため、
上級生にからかわれ泣いたこともありましたが、6年間背負い続けました。
中学の時、密かに憧れていた野球部は「男子のみ」と決まっていたため諦めました。
変に思われると思って、そのことは誰にも相談できませんでした。
生徒会長は例年男子がなるものと決まっていて、
自分にその資格がないことでとても悔しい思いをしました。
高校の時、仲間はずれになりたくなくて必死に化粧に興味を持とうとしたり、
髪を伸ばしてみたりしましたが、廊下の鏡に映ったあまりにちぐはぐな自分の姿を見て止めました。
どれだけ努力をしても、「女装している」という感覚がずっと離れませんでした。
大学に入る頃、インターネットでGIDのことを知りました。
いくつかのGID・FTM(Female To Male;性同一性障害で生物学的女性から男性へ移行する人。その逆で、男性から女性へ性別を移行する人をMTFという。)の個人サイトを回るうちに、彼らのエピソードが自分と非常に似ていることに気づきました。
制服、体育着、水着、部活、トイレ、下着、スカート、ファッション、
私が苦しんできたことと同じ過去がそこにはありました。
その当時、私は自分をGIDではないかと思っていました。
幼い頃から持ち続けていた「自分は人と何か違う」という感覚にやっと当てはまる答えを見つけたという喜びと、共感し合える仲間がいるんだという解放感から興奮状態にあったと思います。
GIDという言葉を知り、その意味を深く知る前に仲間を見つけることに走り、仲間が見つかるたびに、自分がGIDだという確信を深めていきました。
「スカートが嫌いだった」、「男の子とばかり遊んでいた」、「人形よりもミニカー、それより野球やサッカー」など、GID・FTMに多い(典型的な)エピソードはありますが、それだけでGIDであるということにはなりません。
参考として自分史(生活史)を提出することもあるようですが、GIDは本来疾患名であるので、実際の診断は決められた診断基準に沿って進められます。
ところが、インターネットを通じて多くのGID当事者と知り合ううちに、今度はそれまで社会や常識というものから感じていたものと同じ違和感をGIDに持つようになりました。
「女らしさ」という社会通念に苦しんできた私は、「FTMらしさ」という新たな壁にぶつかりました。
GIDかもしれないと思っていたため、特にGID当事者と会っている時には、先輩のFTMの振る舞いや行動をまねようとしましたが、それは自分を制限し、時には望まない方向へ進まないといけないこともありました。
「FTMは男なんだから、男らしくしないといけない」
そんな感覚にとらわれてしまいました。 (これは私の中にあった感覚であって、もちろんそうしないといけないなんてことはまったくありません。)
結局「女の子らしくしよう」と努力して挫折し「自分らしさ」を取り戻した高校時代のように、
自分はGIDではない、「FTMらしさ」=「男らしさ」よりも「自分らしさ」を優先する方がずっと自然で居心地がいいと思いました。
そう決めたとき、それはGIDを知る前の自分に戻っただけであるのに肩の荷が下りたような気がしました。
「自分らしさ」とはとてもあいまいで、その言葉すら重荷になることもありますが、
私が理想とする「らしさ」とは「FTM」でも「男性」でもないことは確かです。
社会的な理由からスカートを履き、化粧をして出社するGID・FTMもいますし、
ネクタイをしめて、男性用の制服を着て働くGID・MTFもいます。
家事が得意でピンクが好きなFTMもいれば、バイクや車が大好きなMTFもいます。
私が縛られているもののほとんどは自分の性別が原因なのではなく、「自分らしさ」を表現する際に障害となるこの社会のジェンダー(ジェンダーとは、「男」あるいは「女」という生物学的性に付随する様々な社会的、心理的な性の側面のこと。)だったのだと今はわかります。
GIDの場合、自分の肉体への違和感がとても強いこと、
逆の生物学的性への同一感があることが診断基準のひとつになっています。
だからこそ、医療の手助けが必要であり、
その治療のための診断基準やガイドラインが設けられています。
医療の介入をもってでしか違和感を克服できない、それがGIDなのです。
しかしその前に、私と同じような状態である可能性もあるので、
治療に入る前に確認のためのチェックを精神科医から受けます。
それでは、もしGIDとして診断が下りなかった場合、
その人はどうすればいいのでしょうか。
私と同じように、自分に割り当てられた性でいることに違和感を持ったまま生きていくことは、
GIDと同じく社会から孤立する可能性があります。
その人の心を治療する?考え方を変えさせる?
それはその人の個性を奪う、人権の侵害です。
ここで問題なのはその人の個性ではなく、
その人の個性に待ったをかける社会のあり方ではないでしょうか。
社会の一員として家庭や職場、学校などの集団に帰属するには、
その集団のルールを守る必要があります。
それを破って行動することは和を乱すことになりますし、我儘でもあるでしょう。
しかし、そのルールを振り返ってみると、実は妥当性の無いものもあると思います。
社会情勢が変化し、共働き家庭や晩婚・未婚が増えるなどライフスタイルの多様化が進む中で、
それまで性というものを意識してこなかった人たちの中にも性へのこだわりを持つ人は増えるかもしれませんし、問題も増えていくかもしれません。
夫婦で働く場合は子どもを預けなければいけない、出産・育児休暇を取ることはキャリアアップにマイナスだ、父親は育児休暇を取りにくい、就職や昇給の男女差はまだまだ大きいなど、仕事ひとつをとっても性に関わる問題はこれだけあります。
性に関して考えることは、性の問題を抱える人たちだけに必要なことではありません。
GIDmediaでの活動を通して、まずは1人でも多くの人が性に関心を持って欲しいと思います。
GIDは他人事かもしれませんが、性はひとりひとりにあるものだからです。
今月のテーマとは少し論点がずれてしまいました。ごめんなさい。
性同一性障害って何だろう?
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2006年10月15日
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